AIの進化が目覚ましい昨今ですが、「考える」のはシリコンチップだけの特権ではないかもしれません。最近、分子レベルで情報処理を行う「分子コンピューティング」の研究が急速に進んでいて、化学反応で思考する分子ネットワークが現実味を帯びてきています。

New Scientist誌が2026年2月に報じた研究では、分子に「学習」させることで知性の本質に迫る成果が紹介されていました。今回はこの分野の仕組みと、今後の可能性についてまとめてみます。

分子コンピューティングとは何か

分子コンピューティングは、化学分子の反応を利用して情報処理を行う技術です。従来のコンピュータがトランジスタの電気的なオン/オフで計算するのに対して、分子コンピューティングでは化学反応の有無や濃度変化を「0と1」に見立てます。

この考え方自体は1990年代からありました。1994年にレオナルド・エイドルマンがDNAを使って巡回セールスマン問題を解いたのが最初の大きな成果です。ただ、当時は「面白い実験」の域を出ませんでした。

化学ニューラルネットワークの仕組み

最近注目されているのは、化学反応でニューラルネットワークを模倣するアプローチです。具体的には以下のような仕組みで動いています。

  • 入力層 — 特定の分子の濃度が入力信号になります
  • 反応層 — 触媒反応や酵素反応がニューロンの活性化関数の役割を果たします
  • 出力層 — 最終的な化学生成物の有無や濃度が出力結果です

通常のニューラルネットワークでは数値の重み付けを調整して学習しますが、分子版では反応速度定数や触媒の量を調整することで「学習」が進みます。2026年の最新研究では、この方法でパターン認識タスクを実行できることが実証されています。

なぜ今注目されているのか

分子コンピューティングが再び注目を集めている背景には、いくつかの要因があります。

まず、シリコン半導体の微細化が物理的な限界に近づいていることです。チップレット技術などの工夫で延命を図っていますが、根本的な代替技術への期待が高まっています。

次に、合成生物学の進歩です。遺伝子回路の設計技術が飛躍的に向上したことで、分子レベルの「プログラミング」が現実的になってきました。CRISPRなどの遺伝子編集技術の普及も追い風になっています。

そして、エネルギー効率の問題です。現在のAIは大量のGPUで膨大な電力を消費しています。一方、生物の脳はわずか20ワットで動いています。分子レベルの計算は、この圧倒的なエネルギー効率を実現できる可能性があるんですよね。

「知性」の定義を問い直す

この研究で特に興味深いのは、「知性とは何か」という根本的な問いに踏み込んでいる点です。

従来、知性はニューロン(神経細胞)のネットワークが生み出すものと考えられてきました。しかし、分子ネットワークが学習やパターン認識を行えるなら、知性の本質はニューロンという「物質」ではなく、情報処理の「パターン」にあるのかもしれません。

脳の外のニューロンの研究とも通じる話で、知性が脳に限定されないという見方が広がりつつあります。分子コンピューティングは、その議論にさらに新しい視点を加えているわけです。

応用が期待される分野

分子コンピューティングが実用化された場合、特に以下の分野でインパクトが大きいと考えられています。

医療・創薬では、体内で直接動作する分子コンピュータが薬物の投与量をリアルタイムに調整できる可能性があります。血中のバイオマーカーを入力として、適切な薬物を出力する「スマート薬」のような構想ですね。

環境センシングでは、土壌や水質の汚染物質を分子レベルで検出・処理するシステムが考えられます。電源不要で動作するため、僻地や海洋での環境モニタリングに適しています。

データストレージの面では、DNAに情報を保存する技術が既に実用化の段階に入っています。1グラムのDNAに約215ペタバイトのデータを格納できるとされていて、長期保存にも適しています。

現時点の課題

もちろん、実用化までにはまだ多くのハードルがあります。

最大の課題は速度です。化学反応は電子回路と比べて圧倒的に遅いため、リアルタイム処理には向いていません。また、反応の精度や再現性もシリコンチップほど安定していないのが現状です。

スケーリングも難しい問題です。数十の分子で構成される回路は作れても、数百万単位のトランジスタに匹敵する規模の分子回路を設計・制御する技術はまだ確立されていません。

まとめ

分子コンピューティングは、シリコンベースの計算を代替するというよりも、従来のコンピュータでは不可能な領域を切り開く技術だと感じています。体内で動作するナノマシンや、電源なしで環境を監視するセンサーなど、従来の計算機とは全く異なる応用が見えてきています。

「考える分子」という概念は、AIエージェントの未来を考える上でも示唆に富んでいます。知性がシリコンだけのものでないなら、コンピューティングの形はもっと多様になっていくのかもしれませんね。