チェスエンジンの世界では、LLMの開発者が知ったら驚くような訓練テクニックがいくつも使われています。最近、Hacker Newsで話題になった記事「Chess Engines Do Weird Stuff」を読んで、「これ、LLMの訓練にも応用できるのでは?」と感じたので、自分なりに整理してみました。
チェスAIとLLMは一見まったく別の分野に見えますが、「モデルの評価精度を上げる」「推論時の性能を最大化する」という共通の課題を抱えています。ここではチェスAI独自のアプローチを3つ紹介します。
チェスAIにおける蒸留が強力な理由
AlphaZero以降、チェスエンジンの多くは強化学習(RL)で訓練されてきました。しかし、興味深いことに、RLは実は最初の1回だけ必要で、それ以降は「蒸留」の方がはるかに効率的だということがわかっています。
なぜかというと、チェスエンジンの性能はモデルの質よりも探索(search)の深さに大きく依存しているからです。具体的な数字で言うと、良いモデル vs 悪いモデルの差は約200 Eloですが、探索の有無による差は約1200 Eloもあるんですよね。
つまり、「質の低いモデル + 深い探索」の組み合わせは、「質の高いモデル + 探索なし」よりも圧倒的に強い。そしてこの「質の低いモデル + 探索」の出力を教師データとして使えば、質の高いモデルを蒸留で効率的に作れるということです。
実際に、lc0(Leela Chess Zero)の最強モデル「BT4」は蒸留で訓練されており、RLループに入れるとかえって性能が下がったそうです。LLMにゲームをプレイさせるベンチマークも登場していますが、チェスAIのアプローチはLLMの訓練効率を考える上で大きな示唆を与えてくれます。
LLMのBest-of-Nと何が違うのか
「探索結果から蒸留する」というアプローチ、LLMの世界ではBest-of-N(複数の出力から最良のものを選ぶ)に相当するように見えます。しかし、効果の大きさがまったく違うんです。
チェスエンジンが50局面を探索した結果は、30倍大きなモデルに匹敵する精度を持ちます。一方、LLMのBest-of-50は、せいぜい2倍大きなモデル程度の改善にしかならないとされています。
この差が生まれる理由は、チェスの探索が「構造化された問題空間」を体系的に調べるのに対し、LLMのサンプリングは「自由度の高い空間」でランダムに候補を生成するため、探索の効率が根本的に異なるからだと考えられます。
だからこそ、AIコーディングエージェントのようなタスクでは、構造化された探索戦略(テスト実行→フィードバック→修正のループ)が効果的なのかもしれません。
SPSAとは?勾配なしで重みを最適化する手法
チェスAIで使われている最も「奇妙」な手法が、SPSA(Simultaneous Perturbation Stochastic Approximation)です。やっていることは驚くほどシンプルで、重みをランダムな方向に2つ動かし、それぞれで対局して勝率が高かった方向に進む、というもの。
勾配を一切使いません。完全にランダムな方向への摂動だけで最適化を行います。それなのに、小さなモデルで+50 Eloという、モデルサイズ1.5倍分に相当する改善を実現できるそうです。
このアプローチが示唆するのは、「微分可能でない目的関数」でもブラックボックス最適化で十分な改善が得られるという事実です。LLMの世界でも、RLHF(人間のフィードバックによる強化学習)の一部は同様の原理で動いていますが、チェスAIほど直接的にこの手法を使っている例は少ないですね。
ランタイム適応:推論時にモデルが自己修正する
もう一つの面白いテクニックが、Stockfishで最近導入された「ランタイム適応」です。
仕組みはこうです。推論時に、まずニューラルネットワークで局面を評価します。次に、その局面を実際に探索して、より正確な評価値を得ます。もしネットワークの評価と探索結果に+0.15ポーンの差があれば、以降の評価からその分を差し引くという補正を行います。
つまり、モデルが「今まさに対戦している局面」の特性に合わせて、リアルタイムで自己調整しているわけです。これはLLMの世界でいう「in-context learning」に近い概念ですが、より明示的で体系的なアプローチだと感じます。
RAG(検索拡張生成)も外部知識でモデルの出力を補正する仕組みですが、チェスAIのランタイム適応はモデル自体のバイアスを動的に修正するという点で、一歩先を行っているようにも見えます。
LLM開発者がチェスAIから学べること
ここまでの内容を踏まえて、LLM開発に応用できそうなポイントを整理してみました。
- 探索結果からの蒸留は過小評価されている。LLMでも「遅いが正確なモデル」から「速いモデル」への蒸留をもっと活用できる可能性がある
- 最終的な目標に直接最適化する手法は高コストだが効果的。チェスの「勝利への最適化」=LLMの「RLHF/RLVR」にあたる
- 推論時の自己補正メカニズムをLLMにも組み込む余地がある
- 勾配なしの最適化が予想以上に効く場面がある
まとめ:異分野からの学びが突破口になる
チェスAIの訓練手法は、LLMとはまったく異なるドメインで発展してきましたが、その知見には驚くほど多くの応用可能性が詰まっています。特に蒸留の効率性、SPSAのようなブラックボックス最適化、ランタイム適応といったテクニックは、LLMの訓練・推論パイプラインを改善するヒントになりそうです。
AI研究は各分野がサイロ化しがちですが、こうした異分野の手法を取り入れることで新しいブレークスルーが生まれるのかもしれません。参考になれば幸いです。