WiFiセンシングとは何か
WiFiの電波が、人の動きを追跡するセンサーとして使われる可能性がある。SciTechDailyが報じた研究によると、WiFiデバイスを持っていない人でも、近くのWiFiネットワークの電波変動を解析するだけで個人を識別できる技術が開発されている。
仕組みは意外とシンプルだ。WiFiの電波は、人体が近くを通過すると微妙に変化する。体格、歩き方、移動速度といった要素が電波のパターンに反映される。この変化を機械学習で分析すると、「誰が通ったか」を推定できてしまう。
従来の監視技術との違い
防犯カメラやスマートフォンの位置情報による追跡は、すでに広く知られている。しかし、これらには「見える」という特徴がある。カメラの存在は目視で確認できるし、スマホのGPSは設定でオフにできる。
WiFiセンシングによる追跡は、この前提を覆す。カフェの前を歩いただけで、そのカフェのWiFiルーターが存在を検知し、過去のデータと照合して個人を特定する。カメラもスマホも不要で、電波だけで完結する。「見えない監視」という表現が使われるのは、このためだ。
技術の具体的な仕組み
WiFiセンシングの基盤にあるのは、チャネル状態情報(CSI: Channel State Information)と呼ばれるデータだ。WiFiルーターと受信デバイスの間で、電波がどのように伝搬したかを示す情報で、通常は通信品質の最適化に使われている。
この CSI データを時系列で記録し、機械学習モデルに投入する。すると、特定の個人が通過した際のCSIパターンを学習でき、次回以降は自動的に識別できるようになる。精度は環境によるが、研究段階で90%以上の識別率を達成した報告もある。
さらに、WiFi 6やWiFi 7では帯域幅が広がり、CSIデータの解像度も向上している。つまり、新しいWiFi規格が普及するほど、センシング精度も上がるという皮肉な構造がある。
正当な用途も存在する
WiFiセンシングには、もちろんポジティブな活用法もある。MIT Technology Reviewの記事では、照明メーカーのWiZが空き部屋の検知に活用している事例が紹介されている。人がいない部屋の照明を自動的にオフにすることで、エネルギー消費を削減する仕組みだ。
高齢者の見守りサービスへの応用も検討されている。カメラを設置するとプライバシーの問題が生じるが、WiFiセンシングなら映像を撮らずに「部屋で動きがあるかどうか」だけを検知できる。転倒検知や異常行動の早期発見にも使える可能性がある。
ホームセキュリティの誤報削減にも効果がある。従来の赤外線センサーはペットに反応して誤報を出すことがあるが、WiFiセンシングなら人とペットの区別がつくため、精度が高い。
プライバシーへの懸念
問題は、この技術に対する法的な枠組みが追いついていない点だ。研究者たちは、WiFiセンシングが規制なしに普及すると、公共空間でのプライバシーが大きく損なわれると警告している。
現状の個人情報保護法は、主にデータの収集と保存を規制対象としている。しかし、WiFiセンシングの場合、「データを収集している」という認識を持つこと自体が難しい。ルーターが受動的に電波を受信しているだけなので、能動的な情報収集とみなされるかどうか、法的に曖昧なグレーゾーンにある。
Amazon Ringの監視問題が最近話題になったが、WiFiセンシングはそれ以上に検知が困難だ。少なくとも防犯カメラは存在が見えるが、WiFiの電波は完全に不可視だから。
対策として考えられること
技術的な対策としては、WiFiルーターのCSIデータへのアクセスを制限するファームウェアアップデートが挙げられる。ただ、すでに出回っている数十億台のルーターすべてをアップデートするのは現実的ではない。
法的な対策としては、EU のGDPRや日本の個人情報保護法を、WiFiセンシングを明示的にカバーする形に改正する必要がある。研究者たちは、「技術が広く普及してからでは遅い」と指摘しており、先手を打った規制の必要性を訴えている。
サイバーセキュリティの最新動向を見ても、監視技術への対応は後手に回りがちだ。WiFiセンシングの場合、技術自体は通信の副産物として既に存在しているため、規制のタイミングが特に重要になる。
私たちが意識すべきこと
一般ユーザーとして今すぐできることは限られる。しかし、「WiFiの電波に自分の行動パターンが記録されうる」という事実を知っておくことは、プライバシーリテラシーとして重要だ。自宅のWiFiルーターのファームウェアを最新に保つ、不要なWiFiネットワークへの自動接続をオフにする、といった基本的な対策は取っておきたい。
Chrome拡張機能のスパイウェア問題でも明らかになったように、デジタル環境のプライバシーリスクは多層的だ。WiFiセンシングはその新しいレイヤーとして、今後の議論の中心になっていく可能性が高い。参考:SciTechDaily、MIT Technology Review