「何かを作れる」ことは、かつて希少なスキルでした。プログラミングができる、デザインができる、文章が書ける。これらの能力がプロダクトの差別化を生み、スタートアップの競争優位になっていた時代がありました。しかしAIツールの普及により、その前提が揺らぎ始めています。
起業家のElliot Bonneville氏が公開したエッセイ「The Only Moat Left Is Money」は、Hacker Newsで221ポイント・311コメントを集め、激しい議論を巻き起こしました。「作ること」のコストがほぼゼロになった世界で、スタートアップに残された競争優位とは何かを問いかける内容です。
「作ること」から「届けること」へのシフト
Bonneville氏の議論の核心は、希少性の移動にあります。以前はプロダクトを「作る」こと自体がフィルターとして機能しており、技術力のある人だけが参入できました。AIによってその障壁がほぼ消えた結果、希少なのは「作ること」ではなく「人の注目を得ること」になったという指摘です。
Hacker Newsのコメント欄でも印象的な言葉が引用されています。「AIツールの最大の利点は、誰でもモノを作れるようになること。最大の欠点も、誰でもモノを作れるようになること」。アイデアも知識もなくてもプロダクトが生まれてしまう世界では、努力というフィルターが機能しなくなります。
リーチの重力効果
Bonneville氏はリーチ(到達力)に「重力効果」があると述べています。一定の閾値を超えると、投稿が人を見つけ、人が投稿を見つけるという自己増殖的なサイクルが始まるのに対し、閾値以下では同じ品質・同じ努力でも結果はゼロになります。
25年間インターネットでプロダクトを作り続けてきた起業家Josh Pigford氏も、「今回初めて難しいと感じている」と発言しました。検索、SNS、ニュースレター、コミュニティ。あらゆるチャネルが静かに劣化しているという実感は、多くの開発者が共有するものでしょう。
本当に「金だけ」なのか
この主張に対しては反論も少なくありません。Hacker Newsのコメント欄では、ニッチ市場への特化、強固なコミュニティ、ドメイン専門知識、規制による参入障壁など、資金以外のモートを挙げる声も多く見られました。
実際、AI分野への巨額投資が相次ぐ一方で、少人数チームが特定領域で成功を収めるケースも存在します。資金力が重要な要素であることは間違いないにせよ、「唯一の」モートと断言するのは過度な単純化かもしれません。
「特異点」はすでに超えたのか
Bonneville氏は、既存のリーチや資金を持たない新規参入者が事実上締め出される「特異点」をすでに超えた可能性に言及しています。そして、この判断を誤った場合のコストの非対称性を指摘しました。
「特異点を超えていないのに超えたと思って行動するコスト」は、不必要な出費で済みます。しかし「超えているのに超えていないと思って行動するコスト」は、永続的な機会損失になりかねません。この非対称性が、多くの起業家に焦りを生んでいるように見えます。
開発者として何ができるか
悲観的な論調ですが、具体的な対策を考えることは可能でしょう。Vibe CodingのようなAI活用の開発スタイルが広がる中、差別化のポイントは「何を作るか」ではなく「誰のために、どんな文脈で届けるか」に移りつつあります。
技術的な優位性だけに頼らず、ユーザーとの関係構築、ドメイン知識の深掘り、規制対応といった「AIでは代替しにくい」要素を組み合わせることが、AI時代の競争を生き抜く鍵になるのかもしれません。
まとめ
「唯一のモートは金だけ」という主張は挑発的ですが、AIがプロダクト開発の障壁を下げた結果、競争の軸が「作る力」から「届ける力」へ移っているという指摘は的を射ています。すべての開発者が向き合うべき構造変化と言えるでしょう。
元記事はElliot Bonneville氏のブログで読めます。競争優位の古典的なフレームワークについてはMichael PorterのHBR論文、スタートアップのモートに関してはAndreessen Horowitzの解説が参考になります。
